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支える人が支えられる世界へ

目次

  1. ケアラーとは:支える人の重要な役割
    1. ケアラーが果たす役割とその価値
    2. 精神疾患患者を支えるケアラーの現実
  2. 「家族だから当たり前」という社会の視線
    1. 社会がケアラーに求める「無償の愛」
    2. 社会的圧力が内側に籠る
  3. ケアラーが倒れたときの社会的リスク
  4. 「支えられながら頑張る」という選択肢の欠如
    1. 「頑張る」か「逃げる」かしかない現状
    2. 助ける手が届かないから、ケアラーは単騎で戦う
  5. ケアラーも支えられるべき存在
    1. 「支えるだけ」ではない、ケアラーの価値
  6. ケアラーがサポートを受けることの意義
  7. 支え合いの循環が生む新しい希望
    1. 「支えなければ」が「支えたい」に変わる瞬間
    2. 共に生きることで得られる解放感
  8. ケアラーと社会へ伝えたいメッセージ
  9. 家族のうつ病を支える人へ
  10. アドバンスプラン -Partnership-

ケアラーとは:支える人の重要な役割

ケアラーが果たす役割とその価値

ケアラー、つまり「病気や障害を持った家族を同居してケアする人」役割とは何だと思われますか?

生活上のケア、療養の手伝いなどが代表的ですね。
これだけなら普通の家族とあまり変わらないかもしれません。
特別な病気ではなくても、家族が体調を崩せば看病をしますから。

私が考えるケアラー、特に心の病になった家族をケアするケアラーの役割とは、本人と一緒にいることだと思います。

文字通り、一緒にいること、一緒に生活をすることです。


それだけ? と思われるかもしれません。

しかしそれだけのことが、とてもとても難しいのです。

精神疾患患者を支えるケアラーの現実

ただ一緒に生活することが、なぜそれほど難しいのでしょう。
経験がある方ならすぐお分かりになると思います。

それは症状が悪化したときの対処です。

知識として、それは病気・障害による症状だから、本人が一番苦しんでいるのだから、本人なりに努力した結果なのだから……と解釈しても、全部受け止めきれるか、というと、また別の問題になります。

病前との違いに戸惑い、教科書通りの対応をしても期待した成果に繋がらず、不安や疲労で余裕が無くなっても、それよりもっと何も出来なくなっている本人の代わりに動いて、ストレスから自分まで不眠やイライラが高じても「自分まで病気になれない」と考えて病院に行く決断が出来ない。

それでも一緒に生活し続けるのは、静かだけれど消えない勇気を持ち続ける必要があるのです。

「家族だから当たり前」という社会の視線

社会がケアラーに求める「無償の愛」

家族、という言葉からどんな関係を想像しますか?
日本の場合「サザエさん」という超有名なアニメがありますよね。
理想的で想像しやすい家族像はサザエさん一家かもしれません。

磯野家で、例えばマスオさんがうつ病になり会社を休職することになったとしたら、あの一家はどうするでしょうか。

きっと皆が一丸となって全力でマスオさんのために尽くすでしょう。
サザエさんは不安を感じつつも笑顔を絶やさず、波平さんは一人で一家を支え、フネさんは子どもたちが不安にならないよう気を配り、カツオくんたちは子どもらしい愛嬌や元気で一家を明るくするのでしょう。

ケアラーは、社会から無言でそれを求められます。
家族なのだから、病気になった家族を支えるのは当然、それを辛いと感じるなど言語道断、愚痴など言わず家族のために尽くすのが当たり前だろう、と。

その圧力は絶大です。ケアラーはどれほど苦しんでいても誰にも相談できず、一人で飲み込むしかありません。

社会的圧力が内側に籠る

こうした圧力は、はっきりと言葉で突き付けられることもあれば、ケアラー側が感じ取るものもあるでしょう。
または自分に対する言葉ではなくても、似たような立場にある人へ向けられた言葉に影響を受けることも多いです。

それを繰り返すうちに、「家族なんだから辛いと言わず支えて当然」という考えが、他者のものではなく自分自身の考えとして浸透していってしまいます。
内面化されていくのです。

そうすると、誰かに言われた、ではなく「自分がそう考えているのだから」となるため、辛さを誰にも漏らさずただ耐えるだけ、という状態に拍車がかかっていきます。

そしていつしか、ケアラー自身のキャパシティを上回る負荷を抱え込み、抑うつ状態になったり、燃え尽き症候群に陥ってしまうのです。

ケアラーが倒れたときの社会的リスク

というご意見もあるでしょう。もちろんそれも一理あります。

ただここで一つ問題があります。
「本人の病気がよくなる」までの期間です。


心の病では、明確に「○ヶ月でどれくらい回復するか」が分かりません。

大抵は「まずは3ケ月くらいゆっくりして様子を見ましょう」のような服薬と経過観察から始まります。
色んな要素の歯車が上手く回ればそこで回復の兆しが見えることもあります。
しかし年単位で症状とそれによる生活問題が長引くことも珍しくないのが、精神疾患です。

「本人の病気がよくなるまで」の間、というのが、体の病気よりもずっと長いのです。辛抱だけで乗り切ることは難しいです。

そして療養中に家族まで倒れたり、耐えきれず離婚や別居になった時、病気本人の受け皿はありません。
個別な状況によりますが、そのまま生活保護や入院ということもなくはないでしょう。

家族が支えているからこそ免れていた手段を、家族が疲弊しきってリタイアすることで取らざるを得なくなります。

家族だからケアして当たり前、という考えは、やる本人が言うのと周囲が期待するのとでは全く違う効果が生まれてしまうのです。

ケアラーが一人で無理をし過ぎたために共倒れすることで、本人の心身は更に不安定になり症状も悪化します。


家族が健康でケアラーとして望ましい役割を果たせるからこそ、本人の療養に効果も期待できるのです。

「支えられながら頑張る」という選択肢の欠如

「頑張る」か「逃げる」かしかない現状

家族だから支えて当たり前、という考えだけを育てているケアラーには、「このまま自分一人で頑張る」か、「全部放り出して逃げる」か、の2つの選択肢しか頭に無いことが多いです。

当然ですね。家族だけで何とかしなければいけない、と、周囲から有言無言で求められ続けたのです。
更に日本の福祉制度は「申請制度」です。利用者側から「このサービスを使いたい」と問い合わせることがスタートなのです。
使いたい、も何も、制度の存在すら知らないのにどうやって制度や専門家と繋がればいいのでしょう。
アウトリーチ(支援機関が利用者の住む地域や自宅に援助者自らが出向き、積極的な働きかけを行うこと)は急速に広まっていますが、精神疾患患者家族には中々届いていません。

家族だけでは背負いきれない大問題を抱え込み続け、その重さを周囲に気づかれないような配慮までして数ヶ月、数年。
ある日突然限界が来るまでそれを続けることが、果たして幸せで健全な家族像なのでしょうか。

助ける手が届かないから、ケアラーは単騎で戦う

実際、ケアラーを直接対象としている支援制度はありません。
介護現場では「レスパイト」という言葉があります。
要介護者がデイサービスやショートステイを利用している間、家族は介護の必要が無くなるため、その時間は休息に当てられることを言います。

しかし成人(20~59歳)の精神疾患患者を対象としたショートステイやデイサービスはありません。


地域活動支援センターや病院のデイケア、就労移行支援サービスなどがこれに該当するでしょう。
運よくこうしたサービスを本人が利用する気になってくれれば、その間は休息になるかもしれません。
しかしこれらの制度も「知らない」から利用出来ません。そもそも病気本人がリハビリテーションするための制度です。家族が休息をとるためのものではありません。

ケアラーが第三者に助けを求めようとしても、直接これに該当する制度がありません。

ケアラー自身「自分には何が必要なのか」を相談出来る専門家・専門機関と繋がることが第一歩なのですが、まずはその情報が無い、と言うことが大問題なのです。

ケアラーも支えられるべき存在

「支えるだけ」ではない、ケアラーの価値

冒頭で「ケアラーの役割は一緒にいること」とお話しました。同時にそれが非常に難しい理由についても説明いたしました。

社会からの無言の期待・圧力を感じながら不安とプレッシャーの中専門知識もほとんどない状態で主治医やカウンセラーと本人の間に立って「半専門家」のような立ち位置で支え続けるのが、ケアラーです。

どれほど過酷な状況なのだろう、と思われた方もいらっしゃるかもしれません。ご自身の状況と比べながら読んでくださった方もいると思います。

それでも、病気本人にとって家族・ケアラーは無くてはならない存在です。
家族だから、ではありません。
常にそばにいてくれる人がいることが、心の病には一番必要だからです。

友だちやソーシャルワーカーがいる、というのは、少し違います。
もちろんそうしたサポートも有難いです。しかし彼らには彼らの家族がいる。本人と常に一緒にいて生活しているわけではありません。

24時間衣食住を共にする人がいる、ということは、それだけで大きな支えであり、ポジティブな責任感を呼び戻し、最悪の選択をしないストッパーになるのです。

ケアラーがサポートを受けることの意義

では、家族・ケアラーが支えられるべき理由とは何でしょうか。


愚痴を聞いてもらう、というのも、半分当たりですが半分外れです。
愚痴を吐ける相手がいるのは幸運です。愚痴、というと口から出る不純物のようなイメージですが、これも「思考の言語化」の一種です。
愚痴をこぼしている間に混とんとしていた思考が整理され、自分が本当は何に困っていて、何をしたくて、他者や相手に何を求めているのか、がクリアになります。

それ以外にも理由はたくさんあります。
ケアラーは努力しまくっています。しかし目に見える明確な成果が現れない(例えば本人が復職する、など)限り、その努力は無駄だと感じてしまい、自己評価を下げ続けます。
そうではなく、求めている成果している努力比例しないこと、十分に価値がある行いが出来ている自分で評価する必要があります。

また「自分のせいで家族が心の病になったのでは」と思い込むケアラーも少なくありません。専門家や経験者と繋がることで、その認識の誤りから抜け出すことが出来ます。

何より「一人だけで頑張らなくていい」ことに気づけます。
ケアラー自身のリソース(メンタル、体力、時間など)は無限ではありません。自分自身の仕事や目標、趣味もあります。

ケアラーが自分自身を保ちながら健康的に家族を支えていくためには、必ず家族以外の支援が必要なのです。

支え合いの循環が生む新しい希望

「支えなければ」が「支えたい」に変わる瞬間

家族はスタート時は「私が頑張って支えなければ!」という使命感と義務感で燃えています。
たくさん勉強するし、本人へ配慮するし、何か出来ることが無いか常に考えて試行錯誤するでしょう。

それは本当に素晴らしい行動です。
少しでも良くなってくれたら、という思いで、少し麻痺状態になっているかもしれません。

しかし長期間続くことでストレスと疲労からモチベーションが下がります。
ここが転機になるでしょう。


ケアラーの疲労、困りごとに寄り添い孤独感を解消させて必要な支援を受けることで余裕を取り戻せると、「支えなきゃ」という義務感「自分が支えたい」という欲求に変化します。

ケアラーの役割への見方が変化するのです。
見方が変化するだけで、やることが大きく変わるわけではありません。
しかし「自分がやりたいからやるのだ」と考えることで、迷いが減っていきます。


「どうすることが正解なのだろう」と悩むことが減り、「自分がこうしたいと思った」という判断基準で選択・行動が出来るようになります。

それに合わせて自分の気持ちを本人へ伝えることへの躊躇も無くなります。アンバランスだった関係が、再び対等に戻っていきます。

共に生きることで得られる解放感

更に進んで、「支えたい」というサポーター的立場から「これからも一緒に生きていく」という共同体感覚を持つことも出来るようになります。

今は相手が心の病が重くてケアラーの負担が大きいかもしれない。
しかしこの先長い人生一緒に生きていくなら、いつか逆の立場になることもある。
支えるだけじゃない、支えてもらうことだってある。お互いがお互いの存在を必要としているのだ。

と考えることが出来るようになります。
この境地に到達できると、ケアラーには怖いものは無くなります。

という、家族としてのレジリエンス(回復力)を持てるようになります。

そのためにも、ケアラー「自分達も支えてもらう立場なのだ、もっと周りを頼ったほうがいいのだ」と納得していただくことが大事なのです。

ケアラーと社会へ伝えたいメッセージ

≪ケアラーこそ支えられるべき存在≫

ケアラーは、病気や障害を持つ家族を支える存在として、日々大きな責任と負担を背負っています。
しかし、ケアラー自身が倒れてしまえば、支えられていた本人はもちろん、家族全体の生活も崩れてしまうリスクがあります。

社会的な無言の期待やプレッシャー、孤立感に耐えながら奮闘するケアラーが、「自分も支えを受けていい」と思える環境づくりが必要です。

ケアラーが休息し、助けを求め、心身の健康を維持できる仕組みが整えば、支える力もより強固になります。

「支える人」こそ、周囲から支えられるべき存在であることを忘れず、ケアラーが孤立せずに頑張れる社会を目指しましょう。

家族のうつ病を支える人へ

アドバンスプラン -Partnership-

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